アフリカ大陸を車で走破するという夢を掲げてガーナ を出た僕ら。
次はいよいよナイジェリアが迫ってきていた。
しかし、この国はかねてより悪い噂しか聞いたことがなく、アフリカ人さえ恐れるというナイジェリア人に僕らは不安の色を隠せなかった。
目次
ナイジェリアという国
ナイジェリアは人口が多く、その数1億9000万人とも言われている。
アフリカ随一だ。
多民族国家で500の部族からなる。
石油が豊富に産出され、人口も多いので経済規模も世界第21位とあり、決して低くない。次に来る新興国とされている。
しかし問題は治安の悪さだった。
政治的腐敗が大きいのだ。失業率が高く、豊富な国の収益は国民に平等に分配されておらず、使途不明のお金が多い。
特に人口過密状態にあるラゴスでは、その犯罪率が深刻でアフリカの中でワースト3に入る。(他の2都市は、ヨハネスブルクとナイロビ。)
そして、その治安の悪さに拍車をかけているのが、イスラム系過激派組織「ボゴ・ハラム」のテロである。
ナイジェリアでは北部のイスラム教と、南部のキリスト教に二分されており、欧米キリスト寄りの政権への反対活動としてテロを起こし続けている。
(最近では学校に武装集団が押し入り、女学生ら250名が誘拐された事件が起きた。-2014年)
しかしそれは、極論的な考えで自分達に都合のいいように解釈し、キリスト教の人々を誘拐し、拉致、改宗、殺害や人身売買などをし続けているのであった。
そんな状態が長く続いているらしく、周囲の国々からも、ナイジェリアの評判は著しく悪かった。
特に、南部のラゴスという場所は、危険だとよく言われた。
なので僕らも、そこだけは避けて通る事にした。
地図を見るとベナンの北側からナイジェリアの首都アブジャへと道が続いていそうだ。
本来ならば、こんな国にあえて行くことはしたくないが、隣国カメルーンへと行く為には通らなければならない。
村々を超えて
僕たちはベナンのコトヌーを出ると、北へと進路をとった。
道は単純だ。街を出ると交差点はそんなになく、地図を見て国道をまっすぐひたすら進むだけだった。
しばらくして交差点が来ると、看板に従って僕らはナイジェリア方面へと進んだ。
そうしてまた進んでいくと、道がだんだんと舗装されていなくなってきて、山道やあぜ道、田舎道になってくる。
ある時は、森の中に突然村が現れたりした。住民達も目を丸くして見ていた。
こんな所でアジア人を見てびっくりしたかもしれない。旅行者自体が来るのも珍しいだろう。
そうして無事に小さな国境事務所を見つけると、そこからナイジェリアへと入国したのだった。
ナイジェリア入国!
僕達はそのまま国道へと出ると、首都のアブジャへと進路を取った。
この国では再び英語が公用語だ。そこだけは僕は嬉しかった。人と喋れる!
そしてさすがナイジェリアは大きな国なので、ときおり通過する街も大きかった。
僕たちは怖く、恐る恐る街の中を通るが、人々はいたって普通に生活しているのであった。
大きな建物も多く、活気がある。
そして、特に治安の悪さを感じることなく、僕達は最初の晩を途中の小さな街で過ごした。
3人いるとどんな場所でも心強い。
僕と雄生は宿の中庭で、夜までまたジャグリングをして練習していた。
そしてそれを見て、のんびりと自分の時間を過ごすまさえ。
その3人の距離感と空気感がちょうどよかった。
夕食を宿の近所で済ますと、最近の夜は、部屋での映画の上映会を楽しんでいた。
市場で買ってきた様々な映画の入っているDVDだ。2ドルくらいで売っていて有名なハリウッド映画のタイトルが20個くらい入っている。
色々なテーマであった。アクションとか、恋愛とか、コメディーだとか。
画質は少し悪いが、内容は十分に見ることができた。
それらを見るのが僕らの毎晩の楽しみだった。
車のコンディション
僕らにはひとつ心配な事があった。
それが車のコンディションだ。
ガーナにいた頃から、エンジンの調子が悪い時があった。
その為に、何度か車屋へと行き診てもらっていた。
エンジンの付きが悪かったり、走っていてアクセルを踏んでもスピードが上がらなく、そのまま止まってしまったり。
(その場合、少し時間をおいて休ませるとエンジンは再びかかった。)
しかし車をいくど修理に出しても、完全にそれらが改善されることはなかった。
やはり、アフリカで車を買うリスクであろうか。
そしてそれは日増しに悪化していき、ナイジェリアを走る頃には、1日の内に止まってしまうことが何度かあった。
さらにある時、僕らを驚かす思いもよらぬ事が起きた…!!
それは走っている時、車体下部にあるマフラーが地面に落ち、転がっていったのだ。
鉄とアルミに覆われた大きなパーツだ。幸い後続車がいなくて何事も起こらなかったが、バックミラーから転がりゆくそれを見たときには仰天した…。
僕らはそれをすぐに拾いに戻った。そしてマフラーが付いていない直管の状態だが車はゆっくりとでも走ってくれ、爆音を立てながら、近くの村までどうにかたどり着く事ができたのだった。
そこで、車の修理が出来る人がいるかと聞くと、なんとちゃんといたのである。
彼らは溶接する機械も持っていて、取れたマフラーを繋げてくれた。
僕らには、マフラーが落ちた原因がわかっていた。
それは、ガーナで修理を頼んだ時、何度行っても状況が改善されないので、その車屋は今まで見ていたエンジンルームを見るのをやめ、マフラーに原因があると思ったか、なんとマフラーの途中の部分を切断してしまっていたのだった。
そしてその後は溶接して元通りにしてくれていたのだが、やはり一度切った所は弱くなっている。
それがここまで走ってくる中で、ガタガタ道も多く、少しづつ負荷が加わって取れてしまったのだろう。
あの車屋を半分恨みつつ、しかしなんにせよこんな小さな村で修理できる人たちがいてラッキーだった。
しばらく待つことに。
すると、その脇では、雄生が案の定遊び出した。
彼はすぐに囲まれる。(笑)
小さな村で、突然現れた外国人にみんな興味津々だ!
まさえも注目の的!
ジャグリングを生で見るのはきっと初めてであろう。
しかし恥ずかしさか、一定の距離を開けてくる子供達。
それを追いかける雄生。(笑)
子供達は「キャーッ!キャーッ!」と言いながら逃げまどう。
楽しかった、こんな場所での出逢い!
どこでも人は一緒だし、みんな同じ感情を持っているんだなというのを改めて感じた。
最後に近くにいた大人たちも俺たちを撮れ!と言ってきた。
パシャりと一枚。
なんだこれ(笑)でも、かっこよく決めてくれた。
首都アブジャにて
その後どうにか車は保ってくれて、僕らは無事にナイジェリアの首都アブジャまでたどり着く事ができた。
街は広く綺麗に整備されている。
しかしガーナのような活気はあまり感じられない。どこか冷め落ち着いたところがある。
その夜、僕らは宿の中にいて、近所での銃声を聞くこととなった。
治安の悪さを初めて実感した時だった。
さて、僕らはこの先の進路について再び話し合う事となった。
ガーナを出てここまで来れた。ナイジェリアはもう半分行けば終わり、その次にはカメルーンが待っている。
サッカーや陸上競技で有名なカメルーンだ。
僕らはすごく興味があったし、また面白そうな場所だなと期待していた。
しかし、不安も大きかった。
それは車だ。ナイジェリアとカメルーンを無事に越えても、その先に、この旅最大の難所と思われる地域、コンゴがあった。
そこの治安の悪さと、また最大の懸念はジャングル地域だ。
果たして今のこの車の状態で無事に走りきる事ができるのであろうか?
僕ら3人は慎重に話し合った。
冒険はしたいが、無謀な真似をするつもりはない。
この先、どう進むのが一番いいのだろう?
僕らはまじめに話し合った結果、しばらくして一つの結論を出した。
『ガーナへ引き返そう』
…だった。
苦渋の決断だったが、そう決めたのだった。
今の自分たちでは力不足だ。今はそれを認め、身の安全を守ろう。
無理をすれば行けるかもしれないが、僕らはここに来るまでの間にすでに十分すぎるほど得るものがあった。
それを持って次のステージへと行こう!
次はそれは、『ヨーロッパ』!!!
そこで今ここで学んで来たものを試したい。
アフリカ旅の断念は正直とても悔しいが、次なる目標に向かって動くのだった。
それが僕らの出した結論だった。
一路ガーナへと
旅の途中で終わるのは心悔しかったが、しかし、ガーナへと帰れる嬉しさもあった。
もう二度と戻れないとも思っていた訳であるから。
そこの友人や場所、空気、社会、それだけ僕らの心にあの地は染み付いていた。第二の故郷とまで言えるかもしれない。
僕らは首都のアブジャから引き返すと、来た道を戻った。
しかし、この国はやはり一筋縄では行かなかったのである。
暗くなり始めた夕方頃、左右に森の広がる国道を走っていた。
すると、前方にはトラックや乗用車が数台止まり、この先には行くなと合図してきた。
何事かと尋ねてみると、この先にゲリラが出ているというのである。
そして僕らのそのすぐ後を、何台ものパトカーが走り抜けていった。
そしてその数分後、パトカーの向かった先から銃声が何度も鳴り響いたのであった。
なんてタイミングだ。もしかしたら僕らも巻き添えを食っていたかもしれない。
これがこの国の現状か。
僕らはトラックの運転手に迂回路を教えてもらうと、無事に別のルートから進む事ができたのだった。
その後、小さなトラブルは色々とあったが、無事にナイジェリアを抜けると、ベナン、トーゴと走り抜け、僕らは無事に故郷ガーナ、そしてケープコーストへと無事にたどり着く事が出来たのであった。
僕らの姿を再び確認した友人たちは、「まさか!?」といった感じの顔で驚き喜び、満面の笑顔で迎えてくれた。
僕らがこの地を発ってから2週間ほどの事だった。
僅か2週間だが、濃く、それ以上にも感じた2週間であった。
僕らは友人たちにその間の冒険談を聞かせた。ビール片手にまた騒がしい夜が更けていくのであった。