【イスラエル旅1】歴史繰り返す、悲しき世界三大宗教聖地

イスラエル旅へ

『世界を旅する!』

と言って日本を飛び出した当時の僕、その中でいくつか行ってみたい場所があった。

その中の一つにイスラエルがあった。

そこにあるエルサレムという場所は世界三大宗教のそれぞれの聖地となっている。

その事を初めて知った時、僕は背中がゾクってする感覚を覚えた。

仲の悪いこの3つの宗教。けれど同じ場所が聖地!?

なんだそれっ!?これって神様のイタヅラ…??

とりあえず行ってみるしかない!旅はそんな目的からも始まったのだった。

 

MEMO

記事は三部に分かれています。

一部ではイスラエルの歴史のおさらい。

二部では現在イスラエル側がパレスチナ人を囲むために大きな「壁」の建設をしていてその反対デモへ参加して来たレポート。

三部では、同じくイスラエル側による「ユダヤ人入植地」の実態について書いています。

 

旅はイスラエルへ

イスラエルへ

当時、中東を旅していた僕はヨルダンの首都アンマンから陸路でイスラエルへと入国した。

陸路で移動すると、その景色の変化が見てとれて面白い。

隣り合う国で経済格差などがあれば、国境一本隔ただけでガラッと変わり、隣の土地は裕福になる。

イスラエルという国もそんな国の一つだった。

イスラエルに入国した途端に道路が綺麗になり、新しい舗装にバスの乗り心地も一気に快適となった。

イスラエル国境と注意点

イスラエル国境

イスラエル側の国境は多くの人で混雑していた。

この国は、世界一入国審査が厳しい国としても知られる。

特にアラブ人は大変なはずだ。

壁に掲げられた懸賞金の付く指名手配犯がリアルだった。

恐らく政権批判の活動家かそれに伴うテロリストだろうか。

懸賞金の額がとんでもない!(驚)

 

ところで、イスラエルに行く際のよく言われる注意点が、パスポートにイスラエル入国のスタンプを押されると、他のアラブの国々に入国できなくなる、という事だ。

イスラエルと敵対する周辺のアラブのイスラム教の国々では、僕ら日本人のような第三者でも、イスラエルに行ったというだけで嫌がられ入国拒否されるのだった。

そしてそれもイスラエル側は分かっているので、入国審査の時に審査官にお願いすれば、スタンプを別紙に押してくれる。

(たまにイジワルな人に当たると、問答無用でパスポートに押されることもあるらしいが…)

僕もお願いして別紙にスタンプを押してもらい、無事に入国したのだった。

聖地エルサレムへ

その後エルサレムへと着いた。

ここに来る前に出会った旅人に教えてもらっていたおすすめの安宿に行った。

荷物を下ろすと、僕はさっそく街へと繰り出してみた。

ここが世界に名を馳せるエルサレムか!

エルサレム到着!

古い街だと思っていたが、旧市街以外は思ったよりも綺麗だった。

ショッピングセンターみたいのもあり、新しく綺麗だ。

エルサレムにあるショッピング街

 

しかし所々に兵士がいて、軍服で自動小銃を胸に携えている。

その分かりやすい見た目からして、テロなど抑止のためだろうか。

「変な事するなよ」っていう。

リアルなこの国の状況をこんな所からも感じ得たのだった。

エルサレム旧市街の中へ

エルサレムの旧市街の中は4つのエリアで分けられていた。

  • キリスト教
  • イスラム教
  • ユダヤ教
  • アルメニア教(キリスト教の一派)

エルサレム旧市街内図

 

世界情勢では、常にキリスト教とイスラム教は揉めているイメージ。

またユダヤ教の立ち位置も難しい。ヨーロッパでは常に迫害され、特に第二次世界大戦時のナチスドイツによる大量虐殺はみなの知るところだ。

そして現在のアメリカ。実質その裏でアメリカを支配しているのはユダヤ人と言われている。

それがこの国の潤沢な資金と軍事力にも繋がっているとされる。

 

それでは、この旧市街の中は、こんな狭いところにこれらの宗教が押し込められていてはさぞ争いも絶えないのではないだろうか? 

しかし、実際には、

エルサレム旧市街内

どこにでもある普通の感じ。

特段殺伐としたものなど感じなく、和気あいあいとしていた。

子供たちが走り回り、親子が買い物をしていたり。

緊張感というのは感じられなかった。

一定の規律のもと、お互いがお互いを尊重しあって上手くやっているようだった。

宗教が違うから別の宗教のエリアには立ち入らない、何てこともなく自由に歩けるようだ。

特にキリスト教とイスラム教のエリアは商店も多く活気があった。

エルサレム旧市街内

 

旅行者も多く、特に制限をかけられることはない。

中は迷路のようであちこち歩き回ってみた。

みんな性根たくましく、物で溢れていた。

エルサレム旧市街、ダマスカス門

 

何か僕は嬉しく感じた。

結局、国を上げての戦争は、上の立場の人間が、現場などを見ずに自らの利益だけのために勝手に行っているだけのもの。

そしてその下につく人間達が巻き込まれていく…。

まるで親同士が喧嘩をしていて、それに気まずい子供同士、みたいな。

少なくとも僕にはそう感じたのだった。

歴史や誇りは大切だが、異民族でも目の前にその人がいれば、みんな絶対に仲良くなれるはずなのである。

よく言われたりするが、世界の権力者や政治家たちは、一ヶ所で共同生活を送れば世の中の争いはなくなるだろう。

確かにその通りだと思う。

旧市街入り口にいた門番!?

旧市街入り口にいた門番!?

お店に売られていた絵。

お店に売られていた絵。ユダヤ人ならではの冗談!

エルサレムで泊まった宿。色々な国籍の人がいた。アラブ人も多く、意外とみな陽気だった^^

エルサレムで泊まった宿。色々な国籍の人がいた。アラブ人も多く、意外とみな陽気だった^^

どうして3つの宗教の聖地であるのか

ユダヤ教とキリスト教

ここエルサレムは複雑な歴史を抱えている。

この地にもともといたのがユダヤ人達。アダムとイブから始まるストーリーはユダヤ教のものだ。

その後エジプトに連行され奴隷にされていた時代があり、それを救ったのがモーセ。海を割って囚われていたユダヤ人達を元の地エルサレムへと返してあげた。

そしてそこにユダヤの国を建国する。しばらくは栄えるが、その後ローマ帝国によって滅ぼされてしまう。

その滅びる直前に、ユダヤ人の中から生まれたのが後のキリスト教となる、イエスだった。

彼は数々の奇跡を起こし、まさに救世主であった。そしてユダヤ教の問題点を唱え宗教改革をしようとした。

しかしそれを認めたくないユダヤ教指導者達。ローマ帝国と共に彼を十字架に張り付けにして殺してしまうのだった。

しかし彼の死からおよそ300年後、弟子達の賢明な布教によって信者は拡大し、ついにはローマ帝国の国教にまでなる。そうしてキリスト教は一気にヨーロッパ全土へと広がったのだった。

ユダヤ教の聖地、「嘆きの壁」

ユダヤ教の聖地、「嘆きの壁」

イスラム教

それから少し時を経た、西暦600年頃。

アラビア半島のメッカで生まれたムハンマド。彼が40歳になる時に天使からの啓示を受けた。

その時に預かった言葉を人々へ伝えて回った。しかしなかなか人々は信じてくれず彼は迫害され続けた。

そんな中、再び天使がムハンマドのもとに現れると、天使は天馬を連れてきていて彼をエルサレムの地へと連れていった。

エルサレムの神殿の丘に辿り着いたムハンマドは、そこからさらに天へと昇る体験をする。

そこで神「アッラー」と出逢うのだった。

彼はそこでさらなる啓示を受けると、この体験を機にそれ以降の彼の信仰心は絶対的なものとなった。

その後メッカの北の都市メディナへ移り住み、そこでイスラム共同体をつくりあげる。政治と宗教が一体となったものだった。

やがてメディナの街を治めると、かつては迫害されていたメッカをも治める。

その後イスラム教はアラビア半島全体に広まって行ったのだった。

 

ムハンマドの死後、彼の跡継たちはさらに布教地域を広げていき力を付けて行った。

そしてエルサレムの支配権を得ようと攻め入った。

当時のキリスト教徒らを追い出すと、見事イスラム教支配の街へと変わったのだった。

そして、ムハンマドの昇天体験をした場所に「岩のドーム」という会堂を築きあげ、イスラム教の一大聖地として今に至るのだった。

岩のドーム

岩のドーム

奪い合いの歴史へと

その後イスラム教支配の時代がしばらく続き、時代の変わり目は西暦1100年頃。

聖地エルサレムを異教徒イスラムから奪還するためといい、ヨーロッパから大量の軍隊「十字軍」が送り込まれた。

これは略奪と殺戮の限りを尽くした酷いものだったと、1000年経った今の世にも伝わっている。

十字軍の遠征

十字軍の遠征(引用:wikipedia)

しかしキリスト支配も束の間。およそ100年ほどで再びイスラム支配へ。

そこから700年ほどは安定期に入る。後に力をつけてきたオスマン帝国の絶対的な影響もあった。

19世紀にオスマン帝国の力が弱まると、時同じくして世界中に散らばってしまっていたユダヤ人達のパレスチナの地に再び帰ろう、という機運が高まり、それは「シオニズム運動」と呼ばれるようになった。

現在の問題はイギリスの二枚舌

中世以降のイギリスは、世界中にたくさんの植民地を持ち強大な力を持つ国だった。

その後、1914年に第一次世界大戦が始まる。

オスマン帝国を敵としていたイギリスは、帝国を崩壊させるためにさまざまな戦略に出る。

その中でパレスチナに住むアラブ人達に、オスマン帝国に反乱したら、戦後君たちを独立させてあげるよと言った。

そしてユダヤ人達に対しては、我々に協力したらパレスチナにユダヤ人達の国をつくってあげるよと言った。

その後に見事に敗れたオスマン帝国。

しかしそうするとイギリスは困ってしまう。だって両方に矛盾する事を言ってしまったのだから。

土地は一つ、民族は二つ。

このイギリスの二枚舌が、今に続くアラブ人とユダヤ人との対立を引き起こしてしまったのだった。

その後、イギリスはなんとか争いを治めようとするが、その後第二次世界大戦が勃発。

戦後はイギリスの国力は衰えてきてしまった。

そうしてパレスチナからも手をひくのだった。

問題は全て国連に任せて…。

国連の解決案は..

国連はこの地をアラブ人とユダヤ人で分割し、聖地エルサレムだけは国際が管轄するという案を出す。

ユダヤ人たちはこれを承諾し、与えられた土地に1948年イスラエルの建国を宣言する。

遥か昔にこの地を追い出されてから、実に1800年ぶりの祖国誕生を果たしたのだった。

 

しかし、アラブ人たちはその案に反発します。

なぜかというと、人口ではアラブ人のほうが2倍も多いのに、土地の面積はユダヤ人のほうが上、しかもアラブ側には飛び地もあったから。

イスラエル・パレスチナ問題

領土の変化。(引用:https://altertrade.jp/archives/11771)

エジプトやヨルダン、シリアといった周辺のアラブ国家もこれに同調し、イスラエル建国の翌日から、イスラエル対アラブの戦争が再び始まったのでした。


参考:wondertrip

 

【イスラエル2へ続く】

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