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【チベット旅】闇バス疾走2000km!ラサの光を目指して

チベット旅へ

チベット旅へ

こんにちは!Yojiです^^

今回は、僕が以前旅した中でも特に思い出深かった場所をピックアップしてお届けします。

その中でも今回は『チベット』!!

ヒマラヤの大自然に囲まれた聖地!

同じアジアの国であり、仏教や、民族的ルーツ、日本ともゆかりの強いこの場所。

美しきチベット回遊記です!

チベットの歴史〜旅する前提に知っておきたいこと〜

まずは旅する前に、現在のチベットの簡単な歴史と現状のおさらいを。

チベットには現在遺跡の発掘などから最低でも7000年前には人がいた形跡が発見されている。

今現在のチベット人達はおよそ2000年くらい前から歴史が始まっているとされる。

世界最高峰エベレスト山を含み、そこから北側に広がるヒマラヤ山脈をチベット高原と呼び、そこにはかつて栄た王国チベットはあった。

彼らはこの地にて自然と共に生き、敬虔な仏教徒であり牧畜や農耕をなりわいとし素朴に生活していた。

チベット仏教と言えば有名で、初期のインドから直接仏法が入って来たチベットには、純粋にその教えを継承している。日本にも密教という形で入って来ている。
(日本の伝統的な仏教は中国から伝わったものなので、それらは中国風に少しアレンジされている。)

チベットの平均海抜は4500m。彼らはまさに’’世界の屋根に住む人々’’である。

しかしそこに今、チベットという国はなく、その民族は滅亡の危機に瀕している…。

中国共産党による侵略

1949年、チベットの右側に中華人民共和国という国ができた。今の中国だ。

毛沢東という指導者が北京で「チベットを解放する」と宣言し、チベットへの侵攻が始まった。

彼は圧倒的な武力で、人口600万人でほとんど武力も持たないチベットはすぐに陥落し、中国の実効支配が始まったのだった。

宗教の弾圧、寺院の破壊、僧侶への虐待。

存在する9割の寺院は破壊され、経典を焼き、仏像も破壊。

また、仏教を中心とした社会の仕組みを壊し、チベット人の土地を勝手に分配し、遊牧民から放牧地を取り上げて定住させようとした。

多くの僧侶は還俗させられ、反抗する者は捕らえられ、まともな裁判もなく拷問、死刑にされた。

敬虔な仏教徒であり素朴で穏やかなチベット人だけれど、ここまでされてはさすがに黙っていられなかった。反中国への抵抗運動が各地で起こると、まもなく全チベット中に広まった。しかし数の上で太刀打ちできないチベット人は、もっぱら山間にたてこもってゲリラ戦を展開するしかなかった。

1959年にはチベットの首都ラサで市民による大規模な反乱が起こったが、すぐに中国軍に武力鎮圧されてしまう。

この時チベット仏教の最高指導者であり政治の長でもあるダライ・ラマ14世は、これ以上の混乱を避けるためには国外へと亡命せざるを得なくなった。

その後、多くのチベット人も亡命。インドやネパールの難民居留地にて今でも暮らしている。

中国共産党が現在チベットで行っている事

その後中国の歴代の共産党トップは変われど、チベットに対する強硬な姿勢は続いていて、侵略・虐殺・宗教の否定は今でも続く。

また勝手にチベット地域に核施設を造り幾度もの核実験を行っている

そこには核廃棄場も造った。他国から高額で買い取った核廃棄物もそこに埋めている。

チベットだけでなく、同じく侵略しているウイグル地区も放射能被害を受けている。

参考文献:チベットの核について

さらには民族の抹消を図っている。

もともと人口が少ないチベットに、人口過密の中国本土から大量に人を移住させている。

移住者は税金面で優遇を受け、高い給料を受け取れる。

そうしてチベット人達の仕事も奪う。官庁などの要職は中国人に奪われ、チベット人は社会的にも差別され不当な扱いを受ける。

また急激に人口が増えたために生態系も破壊されている。

学校教育の現場でもチベット語を話す職員が激減し、自国語を話せないチベットの子供達がすでに多く出てきている。

さらには避妊や中絶を強制している。つまりチベット人の子供が生まれないのだ。このままではチベット人は物理的に民族として消滅されてしまう。

そうすれば、いずれチベット問題という問題自体がなくなって、まさに中国政府の望む最終的解決の形となるのだろう。

参考文献:アムネスティインターナショナルダライラマ法王日本代表部事務所 

ここまで見ると中国は悪行の限りを尽くしているように見える。

ふざけるな、と思う。

だから中国は信用ができない、と思う。

 

ただ、こういった出来事を見るときに惑わされないようにしたいのは、中国と言えど、これは一部の政治家達が独断でやっていると言うことだけだ。

そう、悪いのは全て中国共産党であり、さらにその一部のエゴイスト達だけだ。

そんな者達によって世界が左右される。

もちろん、それを許す国民性があったり、それを変えようとしない人民、また自ら知ろうとして声を出さないのも悪い。

ただ、独裁者というのはいつも自らを鉄壁で守り、人々に銃を突きつけて反対の声を一切出させないようにしているのも事実だ。

そして情報操作だ。自分たちの都合の良いことばかりを言って国民を洗脳する。

チベットへ入植をする者達へは実際、「貧しいチベット地区の発展を助け人道支援をしよう」などと言って上手くだまして先導している。

まさか自分のしている事がチベットの人達の負担となっているなど夢にもみていないのだ。

これは双方を不幸にする。

しかしそれを変えようと巨大な権力に立ち向かうというのは、常に自らの命の危険、また家族親族など周囲皆が巻き添えを食らう可能性がある。

もちろん、権力者たちはその恐怖を分かっていて与えているしものすごく狡猾だ。

しかし彼らも自らの利益を守ために必死だ。そしてそれを暴力によってのみで解決させている。

ちょうど、今の香港のように。

同じ人として恥ずかしく思うし、かくもか弱い者達である。

こういった状況であっても、ダライ・ラマは“非暴力”を訴えているし、多くのチベット人がそれを尊守している。

旅中ドイツで出合った「フリーチベット」のデモ。ダライ・ラマ14世の講演。

チベットへの旅、闇バスに揺られて〜

と、偉そうに語っても当時の僕はそんな事は露知らず、世間知らずでただただ世界を旅する事を夢見ていた一介の少年であった。

まだ旅出たばかりで、これから世界を見てやるぞ!っと好奇心の塊でもあった😄

「チベット旅」と言われれば、当時多くのバックパッカーたちの間でもよく話題にあがった。

そこへ行ってきた者は周りからの尊敬の眼差し勇者扱いされることも少なくなかった。

やっぱしその秘境感や、旅する難易度、そして簡単に人を寄せ付けない厳しい生活環境。

また、チベットを隠しておきたい中国政府の思惑から入山許可証もいった。さらには高山病にかかる可能性もあった。

なのでそれらを乗り越えてまでもチベットに行った者に対しては、称賛の価値に値したのだった。

地図でチベットの範囲を見るのは簡単。茶色い部分全がそうだ。

地図上でチベットを見つけるのは簡単だ。茶色の部分は山脈を現わすが、そこが全てチベットとなる。

こうしてみると、実に中国の半分以上はチベットとなる、地下資源も豊富で中国政府が欲しがるわけだ。

目的地インドを目指して

当時、東南アジアを旅していた僕はタイにいた。そして次の目的地インドを目指して頭を悩ましていた。

ミャンマーを通過して行けばすぐにインドへと行けるのだが、ミャンマーは当時軍事政権下で国境を封鎖していた。

飛行機を使わないのが僕の旅のポリシーだった。

なのでインドへと陸路で向かうためには、必然的に中国からチベットを経由して進んで行くしかなかった。

闇バスに揺られて

中国の真ん中ら辺、チベット地域が始まる直前にある都市、成都。

ここは中国を有名にするジャイアントパンダ生産地や、三国志に登場する諸葛孔明で有名な場所だ。

ちなみにパンダも元々はチベットに住んでいた生き物である。

僕がこの街に来た理由は、ここから闇バスを使ってチベットの首都ラサを目指すためだ。

と言ってもそんなに大袈裟なものではない。

闇バスというのは僕ら旅行者にとってのもので、要は地元のローカルバスだ。

ただ、チベットをあまり外国人に見て欲しくない中国政府は、旅行者が通っていい道を一本に決め、そこ以外からは外国人のアクセスを禁止しているのだった。

その為に、その正規ルート以外からの道は全て違法。そこを通っていいのは中国人だけとなっていた。

そんな事を、東南アジアを周回中に別の旅行者から聞くと、若かりし僕は俄然その闇バスに興味を持った。

政府が勝手に決めた表面上を整えた道なんか詰まらない!そっちの方がよっぽど面白そうだ。

現地で生きる人々の生の生活を見てみてみたい!

僕は若さとエネルギーに満ち溢れ、それ以外の選択肢は見当たらないと思った!

ただ、これが今思うと、その後の過酷な茨の道になるとはまだ思ってもみなかったのだが…。

標高3000m以上、荒野の世界へ

成都の長距離バス停に行くと、漢字でずらりとたくさんの行き先が書かれていた。

目的地はチベットの首都ラサである。

ラサの漢字表記は拉薩だが、簡体表記で「拉萨」となる。似ているのですぐに分かる。

しかし予め得ていた情報では、成都からの直通バスはない。距離にしておよそ2000km以上離れているので、2、3度乗り換える必要があった。

その途中にある主要な街の名前をすでに得ていたので、まずはそこへ向かうバスを探す事にした。

いざ、バスは出発し街を出ると、すぐに山を登り始めた。

木々が無くなっていき、乾燥した大地が現れてくる。

たまに通過する街も味気ないもので、住むには難しそうな環境だというのが伝わってきた。

チベット人

バスの中はほとんどが中国漢民族だった。

中国政府が自国民たちへチベットへの移住政策をしているせいだろうか?

そんなチベット人と中国漢民族、彼らは見分けるのは簡単だ。

チベット人は高原で暮らす民族の為に紫外線を平地民よりも強く浴びる事になる。その為に顔が浅黒く焼けている。

また身体内面も薄い空気に耐えられるように、DNAがより適した形に進化しているという。

バスの中に乗っていた数少ないチベット人。中国人達も興味津々に見ていた。

チベットの食とバター茶

バスは食事時間になると、どっかの村の食堂で止まってくれる。

チベットは高地の為にそこまで豊富に食材はない。味付けもシンプルと言われていたが、これを見よ!

疲れた体には十分に御馳走である!😊

テーブル中央にあり、平べったい肌色のもの、これはヤクのタンである。なかなかの珍味であった。

また、チベットの食文化はユニークだ。人間の知恵というものを感じる。

その一つに「バター茶」というのがある。

これはヤクの乳から作ったバターを使って作られる。

高山地域により失われがちな体の成分を整えてくれる役割があるのだった。

バター茶は、乾燥した気候で失われがちな水分、脂肪分、熱量と塩分を効率的に補給することができ、暖も取れるため、チベットではよく飲まれている。朝から夜まで少なくとも一日10回ほどは飲まれ、多い人は日に5リットルも飲む場合がある。飲む時に唇に脂肪が付くため、リップクリームのようにひび割れを防ぐ効果もある。

引用:wikipedia

しかし、これがなかなか飲み慣れないと不味い…(笑)

要はお茶の中にバターが入っているのである。そしてしょっぱい。

もう、これはスープと言った方がいいのかも知れないが、チベット人たちはこれを朝から晩までたくさん飲む。

仏様にも供えるし、客人にももてなす。家庭によって味が違うらしく、母親から娘へと伝授される。

日本でいう味噌汁の味(古い?)と言ったところか!

バター茶を作ることは誰でもできるが、おいしいバター茶を作るのは簡単ではない。バター茶作りも、母から娘へと伝承していくもので、その家によってバター茶の味が異なるものだ。

引用:ダライラマ法王日本代表部事務所

ドンモと呼ばれる道具でバター茶を作る女性

ヤク

上記した食文化にも現れているが、チベットの生活で欠かせない生き物にヤクがいる。

およそ2000年前より家畜化されチベット民族と共に歩んできたヤク。ヒマラヤ地域のみに生息し、黒い毛に、頭にはツノも生える。穏やかな性格で牛と同じ科目に属す。寒さと高地に適応しており標高4000m以上に生息する。

現在でも重宝されていて、荷役用、乗用、毛皮用、乳用、そして食肉用にも使われる。

彼らの生活には欠かせない相棒だ!

山頂のタルチョ

バスは途中々々で走っていると、いくつもの山々を超えていく。

チベットの山々には必ずといっていい程、その頂上にタルチョと呼ばれる5色の旗がかけられていた。

これはチベットに仏教が伝わる以前より信仰されていたボン教に起源を発するそうだ。

山頂のタルチョ。掛けすぎという事はないのだろうか?(笑)

5色の色は、天・風・火・水・地、の5大を表す。

旗に風の馬が描かれていれば仏法が風に乗って拡がるようにという願い。

経文が記されていれば風になびくことで経文の功徳が広がるとされる。

毎回山頂を通り過ぎる時は、このタルチョが目立った。

すごい高さにまでやってきた❗️

富士山より高い!!

ここまで来るとさすがに空気は薄くて、何もしていないのに呼吸がはぁはぁしていた。

バスに揺られて

その後もバス旅は続いた。

海抜5000mを通過したと思うと、一気に下りに入る。しかし常に高原地を走り続け、海抜3000mより下回ることはなかった。

ここでは木々は生えることなく不毛の大地。空気は薄くて肌寒い、乾燥した気候と強い日差しが肌に突き刺さる。

けれど太陽が出ていたと思ったら、すぐに曇ったり、粉雪も降っていた。ちなみにこの時の季節は5月だ。

舗装されている道もあれば、未舗装で凸凹のひどい道もあったり、そんな時はバスは大きく揺れ頭を窓にぶつけもした。

バスはこういった過酷な道を走れるように車高も高く、なかなか頑丈に出来ていた。

そんな中一番怖かったのは、崖沿いを走る時だ。

ガードレールなんてものはなく、ギリギリのところをバスは走った。一回事故現場を通り過ぎると、バスの乗客たちが一斉に崖下を見ろ!と言い騒ぎ出した。

そこには転げ落ちてしまったのか、バスが大破して横たわっていたのだった…。

進行方向をみると、そんな道ばかりだった。ドライバーを信じるしかない。

けれど、対向車が来たらどうするんだろう??

バスはその後何度も山頂を通過していった。

過酷さ、文化の違い

周りの乗客やドライバー達は英語が喋れなかった。休憩後の集合時間など、最低限会話が必要な時は近くの人と筆談をしていた。

たまに検問所があり、検察官が車内に乗ってくる。その度に僕には緊張が走った。ここでバレたら強制退去になってしまう…。僕は日本人も中国人も黙っていれば見た目には分からないので、ひたすら沈黙して中国人の中に紛れ込んでいた。

夜になると、バスは毎回どっかの村の停留場に止まった。そこで、’’明日は何時に出発だ’’とドライバーが言うと、みんな頷き何処かへ散っていった。

その場合は僕も近くにホテルを探して泊まった。片田舎のホテルは汚いところが多かった。ベットのコイルが伸びきっていて、腰を下ろすと深く沈み込んでしまうような…。

それでも足を伸ばして寝られるのは嬉しい。

しっかりと休み、そして次の日にはまた朝からバス旅が続くのだった。

この旅で一番辛かったのは、バスに何日間も乗り続けることでも、高山による呼吸の苦しさでもない。

それは、周りの中国人達の汚さだった。

「中国人は…、」という言い方はしたくないし、一つの文化でもあるが、しかしとにかく汚かった。

面白い文化にも見えたのだが、彼らはお菓子を食べた袋などをバス車内の通路に捨てる。

それだけならまだいいが、バナナの皮などの生モノもそこに捨てる。

その時点で日本人ならば絶対に有り得ないはずだ。

しかし彼らはそれだけに治まらず、彼らのよくする’’痰吐き’’、つまりツバをペッてするような事も、車内の通路にするのだった。。

これには意味がさっぱりわからなかった。

さらにまだ言うと、特に男性はタバコを吸う。当然灰も吸い殻もそこへポイッとする。

またこれは良い文化にも見えるが、一人がお菓子を食べ始めると、みんな必ず周り近所へもおすそ分けをする。

タバコにおいても同じで、一人が吸い始めるとみんなに配り始めるので、車内で一斉にモクモクと煙が立ち、吸わない人からしたら大迷惑であった。なのでみんなよく吸っている。

(しかしこれは日本においても昔はそうだったのかもしれない。)

そんな訳で朝から乗って夜になる頃には、バスの車内は”巨大なはきだめ”と化しているのであった。

これは人々の意識の進歩度合いと言えばいいのか、またはただの文化的慣習の違いなのだろうか。

遠くに見えたラサの宮殿。6日目の涙

まだ若かった僕は、一人中国人と絡む事もなく必死に堪えて乗り続けた。

しかし下手に喋って外国人だとバレるのも怖かったのもある。

途中で他の日本人と出会えた事が一度あり、その時は嬉しかった^^

しかし結局は孤独の中で何日間もバスに揺られ、果てしない時間の中で進んでいくのは想像以上に過酷だった。

そしてある時、いつものようにバスの外の景色を虚に見る僕の目に、その美しい白亜の宮殿は飛び込んできたのだった。

遠くに見えるそれに、僕はまさか!!と興奮した。

それが写真などで何度も見ていた本物の「ポタラ宮」だとは信じられず何度も疑って見直した。

それが徐々に近づいてきて間違いない確信へと変わった時、僕はきっとそこにいた誰よりも感動したし、涙が出そうになった。

「遂にやり遂げたぞ!」僕はとうとう目的地へと到達したのだった!!

総距離2000km以上。
出発してから6日目の昼過ぎのことであった。

ついに到達ポタラ宮!

圧巻の造り!

ラサ市内

ラサの街は標高3700mにある。(富士山山頂と一緒!!!)

驚異の修行、五体投地とは

僕がここまで通ってきた道を、信じられない方法で進む者たちがいた。

それはチベット仏教の僧や修行者、一般人も含めた信者たちもだった。

チベット仏教は仏教の生まれた地インドより直接入ってきたので、脚色されていないもとの教えを、そのまま純粋に継承している。

そして彼らは今でも五体投地を行い、聖地へ巡礼を行っているのだ。

五体投地とは五体すなわち両手・両膝・額を地面に投げ伏して、仏や高僧などを礼拝することである。仏教において最も丁寧な礼拝方法の一つとされる。

引用:wikipedia

これは本当に多大なる労力を使うし、しゃくとり虫の如くほんの僅かしか前へ進めない。

これを20年以上かけて進む僧もいるという話を聞いた。

これは自己鍛錬においてある意味、究極のお祈りであり巡礼、そして瞑想でもあるかもしれない。

そしてこのお祈り方法はチベットの日常で見受けられ、ポタラ宮の前では五体投地にて日々のお祈りをする人々を多く見かけた。

五体投地によるお祈り

これはドキュメンタリー映画化もされた。

http://www.moviola.jp/lhasa/

まとめ

いかがでしたでしょうか?

バスの旅は過酷ではあったけれど、しかし整備された道でスッと来てしまうよりも、よりここでしか見れないものが見れた気がした旅でした。

生活は大変だろうけれど、人はどんな環境でも楽しく生きている。

そんな事も彼らから感じました。

暴力によって破壊されど、破壊できないものもある。

それは民族としての歴史と深みではないでしょうか。

一つ一つの民族が、誇りと融和を持って、共に楽しくお互い暮らせる世界になることを願って。

皆さんもこれを知って、これからチベットに興味を持ってもらえれば嬉しいです❗️

遊牧民の休憩所!

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