ガーナでの滞在は、期間が長くになるにつれて僕らの存在も知れ渡っていった。
毎週末にリゾート地でパフォーマンスをする。日本人のコンビということで物珍しさもあり地元の人らに知れ渡っていった。
平日は僕らはケープコーストの宿オアシスに泊まる。
車を手に入れてからというもの、僕らはテントを買った。オアシスの中庭にテント泊するならば、2ドルでいいと言うことで、僕らは格安の値段で寝泊まりすることができた。
宿のオーナー、アリにはいつも感謝だった。彼はドイツ人で、ここガーナの女性と結婚し、この地にて宿を経営していた。
オアシスは、その開放的な雰囲気もあってか、多くの現地の若者の集う場にもなっていた。
バーが併設され、夜な夜な多くの人で賑わい、ここでも数多くのショーを僕達は行った。
そしてそこで多くの現地人と出会った。
それがラスタマンたちであった。
彼らはラスタファリアンであるが、それは絶対的なアイデンティティーというよりも、今の世代の若者にとっては一種の自己表現のようにも感じた。
それは僕らでいう、「マジメ」か「不良」かのような。
ただ、ラスタファリアンが単純に不良という結び付け方ではなく、「枠の中に収まりきらない自己表現をする人達のこと」という意味でだ。
彼らは夢を見た、いつかこの地を出て広い世界へ行くという。
彼らは貧しいアフリカを出て、先進国や西洋を目指した。
それはちょうどラスタファリアンの理念とは正反対だが、この地で生きる難しさを垣間見ている僕らには、何も言えなかった。
それらはやはり、「貧しさ」である。
絶対的な貧しさだ。
しかし対照に、TVや雑誌、映画などで西洋の暮らしがいかに豪華で快適そうなものかを彼らは知っている。
その地へと憧れを抱くのも無理はなかった。
特に若者にとっては、それらはちょうど僕らが田舎から東京へと希望を持って上京するのに似ているのではないだろうか。
目次
この地で生きるという事
ここで出会った友人らは、その人生を語ってくれた。
とにかくお金がない。貧しい。ここにいても何も変わらない。
ある友人はビジネスを始めたと言った。
それは路上で物を売る事だった。ガムだったり、アイスだったり、水だったり。
しかし、安定した収益を生み出すまでにはいかず、間も無くやめてしまった
そして次に彼はバーを開いた。
それは、いくどの苦労もあったようだけど、ここまで大きくなったらしい。
それがオアシスの目の前にあったのだった。
あまりお客さんがいるところを見たことがないが、それでもとりあえず続いていた。
彼とはその後すごく仲良くなり、車で一緒に色々な場所へと行ったりした。
僕らは彼らの事をストーンと呼んだ。
「One Stone(一つの石)」と、彼が自分の事をそう呼んでくれと言ってきたからだ。
こちらの社会の仕組みや、ビジネスというものを、決して日本と同じような風には考えないでほしい。
そもそも民族性が全く違うところに突然持ち込まれた、西洋式の社会なのである。
社会の根本が全然違うところに入ってきた新しい価値観であり、特にお金という概念は大きいのではないだろうか。
それ以前からお金があったとしても、西洋式のこの社会では資本家というものがいて、さらに株というものではその資産を一瞬で何倍にも増やしたりする事が出来る。
これらのシステムが、一気にアフリカに入ってきたために、それを得た一部の人達が独占して、身内だけをえこひいきしたり、独占しようとした。
アフリカには独裁主義の国も多い。
民族も多くその対立もあった。ガーナだけでも47部族があるという。
その為に、クーデターや内戦、民族や宗教の対立などが後を絶たないような状況の国も多かった。
だから彼らがビジネスをしようとしても、根本的にビジネスマインドがあまりないし、社会的にも育つ土壌や環境があまり無いのである。
そんな僕らの友達ストーンが、次に行なっていたのがDJなどの音学活動だった。
色々な場所で演奏もしていた。
いつか欧米へのアーティストVisaを取るのも夢だった。
街を歩けば、よくこういったリヤカーで食べ物を売っている人と出くわす。
街にあるビルや会社、銀行などの多くは欧米資本のものだ。
僕らが練習している場所にもよくこうやって食べ物を売りに来る子たちがいた。
彼女らは15歳くらいだろうか。
左はパンケーキ、右はプランテーン揚げ(食用バナナ)←美味い^^
家で作っているのだという。
バス停。人が集まるところに物売りも集まる。頭に物を載せている人たちがいるのがわかるだろうか?
器用にバランスを取って持っている。
みんな何かしらを売っているのである。
また道路で信号機待ちの間を狙って物を売る。たいていの信号機には物売りがいた。
僕らもよく買ってた。
子供も働く。
10歳くらいであろうか。
パック詰めされた水。一袋500cc入っている。
相当な重さがあるはずだが、それでも良い顔をしている。
一つ良かったことは、ここではみんな家族で働いていた事だ。
会社の為でなく、家族の為に。
この差は大きいのではないだろうか。
観光地へと行くと、よくラスタマンたちが店を構えている。彼らは起業家が多い。
僕の見てきた感覚だと、ラスタマン=枠に囚われない人=何かやってやろう=起業家という感じだった。
貧しいとは言っても、ここガーナは西アフリカの優等生と呼ばれていた。
「政治が安定しているので経済が発展している。人々も平和的で友好的」と言われていた。
ツーリストも多く、周辺の国よりかは何倍も恵まれた環境だったと思う。
西洋への切符を夢見て
そんな彼らがやっているもう一つのチャレンジが玉の輿に乗ることだった。
観光地には欧米からのツーリストが集まる。女性だけのツーリストやNGO関係者も少なくない。
その彼女らの元へと話しかけていき口説くのだ。
この地へとやってくるツーリストは当然アフリカ人好きも多い。
ただ、もちろん向こうも警戒するし簡単には落とせない。そして何よりライバルも多い。
しかし、そうやって口説き落とし、一夜を共にする。女性からすれば旅先でのアヴァンチュールだろうか。
もちろんロマンティックだし、燃えるような恋をするだろう。
しかし、こちらの男性からすればもっとしたたかであった。
こちらの男性からすれば、その女性と結婚したいわけである。それが欧米のその彼女の国籍のビザをとる一番速くて正確な道のりだからだ。
その為に、その男性達は、女性を妊娠させようとした。
また、その女性も一度は国に帰るわけである。しかしその間にもその男性達は、別の女性達を狙っては同じことをした。
ある男性は、欧米に5人の彼女がいた。それぞれに別の国々である。
そして子供もそれぞれの彼女にいた。
それでもこちらの国籍の者にとってビザは簡単には降りない。
政府も偽装結婚を疑うし、数年の付き合ってきた期間が必要だったり、その証拠としての写真などを求めたりする。
また女性の両親も偏見からアフリカ人との結婚を認めないケースもあるようだった。
だから男性の方も保険のように多くの女性と関係を持とうとする。
悲しい現代社会の闇みたいなものを見た気がした。
そもそも人が人の行き来を制限する、時代遅れの現行の世界法自体に僕は疑問を持ってしまうのであるが。
それ故にこういった悲しい事態が発生するのだった。
これはその後のストーリーになるが、しかし、ひと度欧米に行けたからといってゴールではない。その後に待ち受けているのはアフリカとは違った冷たい社会である。
彼らは知らない。ここを抜けさえすれば明るい未来が約束されているのは間違いだという事を。欧米にあるのは差別と偏見、学歴と資本主義。それに冬だ。
ここアフリカの地は少なくとも人の温かさがあるのだという事を。
アフリカ人の彼女
ここからは僕の体験談になる。
僕にも滞在中彼女ができた。ここガーナで現地の女性だ。
その出会いは街中のバーでだった。みんなで飲みにいった時に、その彼女は現れた。
一目見て気に入り、みんなに背中を押されて勇気を出し、僕はいざ彼女に話しかけにいった。
すると彼女は嫌な顔せずに笑顔で接してくれた。小柄で可愛らしく、アフリカ人といえど僕のタイプの感じだった。
僕は嬉しくなり、彼女を喜ばそうと、一緒に踊ったり、エスコートしたりした。
外国の地で、またアフリカで、その全てが初めての経験であり、また奥手だった僕は恥ずかしさもあり全てがたどたどしかったが、彼女の方も喜んで僕を受け入れてくれた。
彼女の名前は、「Dorcas(ドーカス)」と言った。
しかしそれよりも英語名を好み、「ステファニア」と呼んでと言われ、そう呼んだ。
彼女は19歳だった。当時の僕は23歳だ。
その後しばらく会ううちに、僕はステファニアのことを彼女と呼んだ。
僕と雄生はしばらくこの地に滞在を余儀なくされていたし(アフリカ旅)、アフリカ人の彼女とはどういうものなのか、僕には興味深かった。
ステファニアも外国人の彼に悪い気はしていないようだった。
彼女はそこまで喋るタイプではなかった。
基本的にあなたに付いていくという感じだった。
(これはこちらの社会的な価値観がそうなのだと感じた。女性はみんな男性より前へと出ない。他のカップルや夫婦などを見ていてもそう感じた)
しかし、全くの異世界の者同士が一緒にいるのが面白かった。
友達や仲間とはまた違った距離感でその一面性を垣間見せてくれる。
雄生とまさえも受け入れてくれ、僕らは車で共に出かけた。
きっと恐らく、それは彼女にとって初めての経験づくしであったはずだ。
物の見方
彼女にとってみれば玉の輿であっただろう。
僕は裕福な国から来た者であり、彼女が前述した男たちと似た考えを持っていたのは、一緒にいる中でよく感じていた。
その一番わかりやすいのが、「あなたの赤ちゃんが欲しい」と出会ってからまもなくに何度も言われた事だ。
また、お小遣いみたいに度々お金を求められることや、ビジネスをしたいから出資してというお願いをされたりもした。
僕はその背景もわかっていたので、自分にできる範囲で助けた。
しかし、やはりそれにはキリがなかった。結局、僕らがお金を持っている理由も彼ら彼女らには想像がつかない。
先進国と言われ裕福な国と言われる欧米や日本。
僕らは確かに、1時間働けば1000円なりのお金を得ることができ、その1000円というお金はこちらに来れば何倍かの価値を持たすことができる。
ただ、それと引き換えに僕らはストレスの中で生き、決して楽ではなくお金を得ている。それを苦に自殺する人がいて、鬱になる人が多くいる。
それを知らずに、僕らは単にお金を持っているとは考えて欲しくなかった。
また、彼女の家族からもお金を求められる事もあった。
日本人としてはあり得なく感じるが、しかしこの場合についてもまた深く考えさせられた。
それは、「家族は助ける事が当たり前」というこちらの人生観に基づいているものだと思ったからだ。
日本も昔はそうだったはずだ。一族や、繋がりに助けを求める。だから貧しくても生き抜いてこれたし、人との繋がりが強くあったので、幸せも多く感じれていたはずだ。
それがなくなった日本、それが未だ色濃く残るアフリカ。
どちらが良いのだろう?経済発展とともに失われるもの。
彼女との付き合いはそんな想いを強く感じさせてくれたのだった。
恨むという文化
彼女を通してアフリカのもう一つの負の側面を見た気がした。
それが恨みの「怨念の文化」だ。
嫌いな相手への恨んだり憎んだりする気持ち。この感情の強さの一面を感じる時がさまざまな場面であった。
ステファニアもまた、嫌いな人に対しての恨む気持ちが強く、その時の形相はまるで悪魔のようにも見えた。
アフリカはそもそも人と人との距離が近く、また村文化でありみんなが隣り近所を知っている。
嫌なことがあっても、簡単に手を出せないのだ。
その為に、恨む。
それは日本にももちろんあるが、それとはまた違った深い一面がここにはあった。
呪術的な感じだ。
ここにはシャーマンという存在も身近にある。
アフリカの別の地域では呪いで人を殺す復讐があると聞く。もしかしたら僕らがいた地域でもそれは影であったのかもしれない。
残せるもの
僕はいずれ行ってしまう。
それまでに、僕という人間を通して、彼女に与えられることをできる限りしたい思った。
そして怨みという感情の代わりに、純粋な物の見方が伝えられるかどうかと僕は試みた。
内気であり、卑屈なところがあった彼女だが、僕やそれ以外にも、雄生やまさえの純粋で屈託のない人間性との付き合いを通して、彼女は変わり始めていた。
また出来る限り、僕らが行くいろいろな場所にも彼女を連れて行き、多くの現地のガーナ人とも出会わせた。
なるべく僕らといるうちに多くの感性と新しい光景、大人の人たちとの出会いを通して成長の刺激を与えてあげたかった。
2ヶ月間一緒にいる中で、彼女は確実に最初の頃よりも変わって行き、笑ったり以前より感情を表すことが多くなっていったのだった。
その後は、僕らの出発と共に別れたのだった。
未練はなかった。愛おしく感じる反面、一緒にいることの難しさをも感じたからだ。
彼女の方もそれは分かっていたようだった。
若き日の冒険の一ページであった。
こうしてまた一歩、ガーナに大きな足跡を刻んだのであった。
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