ここガーナには、ラスタマン達が多かった。
それはこの国の歩んできた歴史が関係していた。
1501年〜1867年の中世、当時の新世界であった南北アメリカ大陸へと奴隷を連れていくためにたくさんの悲劇がここ西アフリカの沿岸各地で起こった。
それは決して一国だけの所業ではなく欧州各国、スペイン、ポルトガル、オランダ、イギリス、フランス、デンマーク、スウェーデン、アメリカが関わった。
各国のその力関係、戦争の勝敗で植民地の主導権も常に移り変わった
ここガーナのケープコーストにあるケープコースト城も当初はポルトガル、そこからオランダ、スウェーデン、そしてイギリスへと主権が移り変わっていったのだった。
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目次
ケープコースト城
この写真は、この地を自身のルーツだと考える著名人達の写真だそうだ。
なんと左上にはボブ・マーリーがいる。
真ん中にはスティービーワンダーもいる。
ここから連れ去られた黒人の数は圧倒的に多かったのだ。
奴隷貿易の実態…
日本ではなかなか考える機会のない、奴隷貿易の歴史。
ここでは人権や人種、国籍、差別。当時の状況がうかがえる。
しかし、一概に白人やヨーロピアンのみが悪いというわけでなく、実は、ここ現地の当時存在していた黒人の王国も、他の部族の黒人を捕まえて、ヨーロピアンたちに売っていたという事実も残っている。
人間の欲望やエゴ、意識、残酷さというのはどこでも一緒なのだなと改めて考えさせられたのだった。
ガーナとラスタマン達
そして以上のような前説と歴史があり、ガーナはジャマイカと深い繋がりがあり、ここガーナでもラスタファリを信仰する者は多かったのだった。
またガーナもジャマイカも英語の国で、お互いが意思疎通できたのも大きいかもしれない。
そしてガーナ人に大きな影響を与えたのは、やはり未だに多くの人に崇拝されるレゲエの神、ボブ・マーリーがガーナ出身だったという事だろうか。
(ボブ・マーリーの妻、リタ・マーリーは僕らがいた当時、ガーナに暮らしていた。)
物語は続く
以上のような歴史と状況下にあったガーナ。
そこに偶然辿り着いた僕らは、日に日にその深みへと入り込んで行った。
彼らの叡智とは。
それは、僕らにとって未だかつて出逢った事のない人種との遭遇だったのだった。