歴史香る島、セネガルにある奴隷貿易島・ゴレ島とは一体?!

ゴキブリハウスを出ると、僕らはいよいよセネガルの首都ダカールにまでやってきた。

ガイドブックにはダカールは「西アフリカのニューヨークと呼ばれ栄えた」と書いてある。

確かにその面影はあると感じた。

背の高い大きなビルが建ち並び、町の造りも一気に都市っぽくなった。車がたくさん走り、アスファルトでよく舗装されている。人も多く、色々な店が構えていた。

しかし、それも時の流れとともに過ぎ去った感があり、現在では寂れた感じも混在していた。

首都ダカール

僕らは街中のゲストハウスに宿を取った。

3人いると、ドミトリーを探さなくても良いので楽だ。

宿で韓国人の旅人と出会ったり、フランスやベルギーなどの旅人とも出会った。

さすが、元ニューヨークだ。外国人も多い。僕は久しぶりに見る大きな街に心躍らせた。

 

こんな所にまで店を出している。

 

しかし、すぐに疲れてしまった。街を歩けばすぐに誰か近づいてきて何かを売りつけてこようとしたりする。

彼らは決して僕を1人にはしてくれなかった。

今まで見てきたように、大きな街というのはそれだけ絡んでくる人も多かった。

 

そんな中、ガイドブックにゴレ島のことが書いてありそこに興味を持った。

ダカールから目と鼻の先にある島で、歴史のある島らしい。

今ではそこはアーティストが多く住み、静かで気持ちいい場所と書いてあった。

僕らは早速その島へと行ってみることにしたのだった。

奴隷貿易島・ゴレ島

港に着くと大きな貨物船が泊まっていた。

イタリア語が書かれていたこの船はイタリアに行くのかもしれない。

今となっては遠く離れた彼の地に思いを馳せ、いよいよアフリカ内部にまで足を踏み入れている事に再度実感をした。

僕らは船へと乗り込むと、ゴレ島へと出発した。

島が見えてきて近づいていくと、最初に目についたのは砲台だった。

この島は奴隷貿易島でもあり、要塞でもあるというのが如実に伝わってきた。

東西300m、南北900mという小さな島。

上陸すると、そんな歴史的重みとは裏腹に、元気いっぱいの子供たちが迎えてくれ、オシャレなカフェやカラフルな木々が迎えてくれた。

ヨーロッパに植民地にされていた場所は皮肉ながらどこも美しい。

 

 

島の中を歩いていると、たくさんの欧米からの団体旅行客らが集っている場所があった。

そこは奴隷が収監されていた場所で、現在では博物館となっていた。

博物館の正面。この図は中学校の社会科の教科書で見た記憶がある。2階は白人のオフィス、1階から地下は牢屋になっていてアフリカ人達が捕らえられていた。中は暗く湿っている。

ここが奴隷貿易の拠点となり、当時新大陸であったアメリカ大陸へとアフリカ人たちは捕らえられ連れて行かれたのだった。

16世紀から19世紀の間で、その数は1500万人〜2000万人とも言われている。

このゴレ島は島という特異性を活かし、奴隷船が来るまでの間奴隷達が逃げないように閉じ込めておく場所だったのだ。

負の遺産からアートへ

島は決して良い歴史を持っていない。

ユネスコ世界遺産に登録されているが、負の世界遺産だ。

それでも現在ここにいる現地の人たちは暗く恨んだり、ネガティブな感情は見受けられない。

明るく純粋だ。

 

その後、島の中を散策してみた。

ダカールとは目と鼻の先なのだが、流れる時間や空気は全く違っていた。

ふっと、ある建物の壁に日本の国旗があった。

ここは学校のようだった。

日本の援助で建った学校のようだ。

フランス語で書かれる日本援助の証

フランス語で書かれる日本援助の証。

中は学校のようだった

中は学校のようだった。

 

島の中には丘陵があり、そこの上に登ると砲台が見えた。

その負の遺跡は、今ではアーティストらのアトリエへと変えられていた。

砲台の中は移住空間になっていて、さながら秘密基地のようであった。

島の中には、様々なアートで溢れていた。

午後のうららかな日、優しい風が吹くこの場所でそんな凄惨な歴史があったとは露にも思わず。

この先二度と過去の歴史を繰り返さず、芸術を持ってして人々の心に彩りが加えられれば良いなと思ったのだった。

 

ダカールへと戻ると、今日は別行動をとっていた望がご飯を作って待っていてくれた!

う〜ん!女性が一人でもいると生活にも彩りが加わるね!

アフリカで新鮮な野菜は久しぶりだった^^

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