パフォーマンス日記 世界をみる

クラウン?ピエロ?人の心を掴むその裏に隠された歴史とは?

2019年2月13日

遊園地や行楽地、イベントなどで見るカラフルで派手な衣装に、白い顔、赤い鼻。

風船を作ってくれたり戯けたりしている。

それは何かと尋ねれば、みんな決まって答えるのは、’’ピエロ’’ではないだろうか。

風船以外にも、パントマイムをしたり、マジックをしたり、ジャグリングをしたりしてくれる。

場を和ませ、空間に彩りを与え、子供から大人までもついつい見てしまう愉快なキャラクター、ピエロ。

近年では、ホスピタルクラウンというジャンルも確立され、難病で長期入院している子供たちの病院へ行き、喜びと癒しを与えたりもする。

しかし、このピエロという存在、そもそも実はそんな喜びの為の存在ではなかった。

子供によっては白い顔は恐怖を感じ泣いてしまう。

目の下によく描かれている涙マークはなぜ?

赤い鼻はなぜ付ける?

喜びとカラフルな存在のピエロから哀愁を感じはしないだろうか?それはなぜ?

今回はその歴史を少し紐解いて行ってみようと思います。

イタリアで生まれた近代クラウンの原形 

ピエロとは日本で一般的に広まっている名前だが、正確にはクラウンと呼ぶ。

ピエロとはフランス語だ。またちょっと由来が違う。(これ以降ここではクラウンと呼ぶ)

日本語では道化師ともいうが、英語でのクラウン(Clown)の意味はおどけ者や愚か者をさす。その名は当初はフールやジェスターとも呼ばれていた。(冠を表すクラウンはCrown)


その存在はもともと中世の頃を全盛期とし王宮に従える宮廷道化師というエンターテイナー的存在であった。また小人病や知恵遅れ、奇形などを置いておく事もしたようだ。これらは愚者として魔除けの意味もあったらしい。彼らは犬などと同等に見られ、何をしても許されたとある。唯一王に物申せたのも彼らの特権であった。

また、愚者には二種類いる。

本当に愚者で狂った者。しかしそれは時に神と通じていたり、常人の感じ得ない感覚を持っていたりする。その為にそういった者達の言葉は神がかっているとされ、神聖視された。

またもう一つの愚者は本当は頭の切れる者だ。頭がいいからこそ愚者になれる。歌や物語り、冗談や謎かけ、風刺、奇術、曲芸などを行った。時に王のアドバイザーとして活躍していた者もいたようだ。

その存在は古くは古代エジプトの王宮にも確認できるそうだ。
トランプのジョーカーもここから来ている。

*日本にもそういったお殿様に仕え楽しませる娯楽的存在はあったようだ。(落語の起源説)

その後、王政の終わりと共に、宮廷道化師という職業も無くなった。

現在の我々が目にするようなクラウンという形が出来上がったのは19世紀のイギリスでサーカスの発展と共にと言われている。
そしてその礎となったのが、16世紀のイタリアを発祥とする即興演劇、Commedia dell’arte(コメディアデッラルテ)から由来すると言われている。

宮廷で道化師が活躍する頃、こちらは舞台で誕生した道化師である。

Commedia dell'arte(コメディアデッラルテ)

これは元祖旅芸人の集団でもあり、街から街へと移動していき、その日その場で仕入れた時事的なこと、また人間模様などを喜劇に仕立て上げ、大筋の流れだけを決めておいた後はその街の広場で即興でショーを行っていた。それを毎度新しい街に着くと公演していた。

決められた役割のキャラクターがいて、ケチな商人、マヌケなお金持ち、ずる賢い老人、意地悪な使用人、ナルシストな王子様、また医者や町長や美女や魔女や浮浪者まで多彩に存在する。それぞれに特徴的な個性があり、仮面を被ったり、決められた衣装を身に付けたりしてそれを表現する。

この即興演劇は時代を超え、今でも多くの劇団やグループによって公演されているが、ここに登場するキャラクターは普遍的なもので、どこで誰が演じようと変わることはない。

ケチな商人は常にケチな商人であり、その歩き方や姿勢、仕草などは基本的に同じである。

演出家はその決められたキャラクターをどう使うかで、力量が試されてくる。

なので一度や二度観ただけだと、この演劇の面白さはあまり分からないが、観れば観る程に面白さを増していくのだ。

事実、イタリアにおいてはこの演劇は深く根付いており、街中のシンボルとして使われていたりもする。

その一番わかり易い例が、ナポリ生まれのキャラクター、Pulcinella(プルチネッラ)だろう。

ナポリに行くと、街中の至る所でそのキャラクターを見ることができる。

ナポリではあらゆる所にプルチネッラが描かれている。後ろの山はナポリのシンボル、ベスビオ火山。

クラウンの原型となったもの

話は戻ってCommedia dell’arteには様々なキャラクターが存在するが、クラウンの原形になったものは、意地悪な使用人Arlecchino(アレッキーノ)と言われている。

ツギハギ衣装に三角帽子が特徴的の彼は、猿の様な仮面を被っている。
独白が巧みで、マイムが上手であり、即興、喜劇的いたずらや無鉄砲な動作を行なっていた。

これこそがクラウンの原形となっていった由縁である。

彼は物語の中で大事な役割を含んでおり、彼がいることによって、物語の面白みがグッと増す。

演じる役者にとってもアレッキーノは花形で、上手な役者ほど会場を盛り上げる。

プルチネッラとアレッキーノは仲良しコンビ

余談だが、Commedia dell’arteの役者にとって、演じる役は生涯を通して、または長年を通してその役演じると言われている。職業としての俳優を確立させたのもCommedia dell’arteだと言われている。

同じく花形のプルチネッラも歴史の中にはそれのみを演じ続けた有名な俳優もいた。

そしてこのアレッキーノという役がフランスへと渡った時、アルルカンという名前で呼ばれるようになった。

ピエロの誕生

フランスでも人気となったアルルカンは、次第に劇の中での地位が不動のものとなっていき力を付けていった。その時にもっと立場の弱い召使い役が必要になった。そこで生まれたのがピエロだった。

ピエロは田舎者で愚か者の役割だった。人々の嘲笑の対象にされ不恰好な役だった。

白い服に白塗りの顔は死を意味している。自己抑制し情念も言葉も表情も全て無くした現れだった。

人々に笑われて馬鹿にされ喜ぶ役柄。しかしその内本当は悲しい。それが涙目として表現されているのだった。

それが哀愁漂うピエロの訳だった。

遊園地などにいる白塗りの顔のピエロ。カラフルで優しく風船などを作ってくれるが、一方子供によっては怖がったり泣いたりしてしまう時がある。

これは本能的に子供達はその意味を察知しているからなのかもしれない。

*メイクの理由については諸説がある。
目の上に線を引く場合があるが、それは潰れた目を現しているとも言われている。耳を赤く塗る場合もある。それは耳が聞こえないことを現している。
ではなぜ赤鼻はつけるのか。それについても、マスクが小さくなっていきそこだけ残った説や、酔っ払いの赤鼻説、血塗られた顔説などと諸説がある。

そもそも最初の大道芸やサーカスなどは障害者を見せ物としているところから始まっている。それが現代に形として残っていて、それらは歴史の闇なのかもしれない。

ただ、赤い鼻をつけると面白い、可愛らしいなどの印象を与えるのも事実。
ホスピタルクラウンの祖、パッチ・アダムスは、彼の映画の中で子供に安心感を与えるために赤い鼻を付けていた。

パッチ・アダムス

クラウンを構成する大事な要素

クラウニングを学ぶ際、今でも重要視されるのが、Commedia dell’arteを学んだことがあるかどうかだ。

それは、世界最高峰のサーカスとして名高いCirque du Soleil(シルク・ド・ソレイユ)の俳優募集要項でも、クラウンの募集要項には、Commedia dell’arteを学んだ事があるかどうかと求められている。

しかし、なぜそこまでCommedia dell’arteは重要視されるのか、もう少し紐解いていこう。

前述で多くのキャラクターが存在すると書いた。

しかし、いくら沢山いようともそれは単純に2つのカテゴリーに分けることができる。

それは、主人か召使いかだ。それは何か?それはつまり、パワーバランスなのだ。力がある方か、ない方か。

権力者か、それに従う者か。

日本の漫才でも、ボケかツッコミかと役が決まっている。

クラウンの世界では、ホワイトフェイスとアウグストと呼ばれたり、また赤クラウンと白クラウンという呼ばれ方をしたりもする。

つまりこのどちらかでパワーバランスは決まっている。

もしコンビでクラウンのショーが行われれば、必ずどちらかに赤か白かの役割がある。

もし、クラウンのショーが一人で行われている場合、その場合は観ているお客さんが力のある主人側だ。

これは他のどんなショーでも共通することだが。それは一見、そんな事いちいち伝えないし、お客さんもそんな事考えないだろうが、それは観ている中で無意識に感じるものだ。

なぜならお客さんの望むことをする。それこそが、ショーの本質だからだ。

Commedia dell’arteでは、この演劇の手法が確立されている。
それは永年に渡って築き上げられてきたものである。

そしてショーを構成する上で何よりも大切なのは、演者のキャラクターだ。

この人はどこの誰か、というのが明確になっているのも、このキャラクター設定のお陰だ。歴史の中で築いてきたキャラクターは、その動作、口癖、手癖、性格、立ち居振る舞い、また歩き方一つに至るまで細かな設定がなされている。

あらゆる劇の中でキャラクター性というのはすごく大切な事だ。なぜならば人は、劇ではなく、そのキャラクター(人物)を好きになるからだ。

そしてその上で即興劇が行われる。

これがCommedia dell’arteなのである。
クラウニングや大道芸、また人と接しパフォーマンスをする上での大切な要素が多く詰め込まれているのだ。

Arlecchino(アレッキーノ)にみる人間性

アレッキーノというキャラクターは大人気となった。
他のどのキャラクターよりも。

ひょうきんでずる賢い。優しいのだが悪どい。真面目なのだが何か抜けている。憎たらしいのだが憎めない、また時折見せる心優しい一面性。

これはクラウンに通ずる大切なことだ。

大道芸やクラウンをしていて大切なのは、実はこの悪どさなのだ。

人は優しさだけでは飽きてしまう。

人は映画の中や演劇の中に、また漫画などの中に、現実世界では出来ないロマンや非現実味を求めている。

’’優しさ’’、と言うのは誰もが求めているの事ではあるのだけれど、この現実世界、憎たらしいことや悪き事も多く存在する。

それに対してこちらも悪くなりたいが、自分の中の理性が歯止めをかけるものだ。

人はそういったストレスを別の方法で解決する。

それが映画の中などで、主人公が自分に代わってバタバタと暴力で悪を挫く行為や、仕返しをして痛めつける行為に爽快感を覚える。

それは街角の大道芸や、パフォーマンスの中にも。

例えば、バルーンで犬を作ってあげてプレゼントする行為。

これは純粋に素晴らしく美しい。これを恵まれない子供や、また病気の子供たちなどにするのは、愛や希望に溢れ誰もが感動するだろう。

しかし、それをショーとして一般的な所で、一般的な人に対して行っても、そうは面白くないものである。

当たり前すぎるからだ。

その中で一つ捻りが必要なのである。少し意地悪したり、下心を要求したり、間抜けであったり。

人はそういった所に面白味や人間味を感じる。
ただの良い人であるだけのショーだと、人は飽きてしまうのである。

ただ、本当に悪く、憎たらしいのはもちろんダメだ。そんな事したら人は離れていってしまう。あくまでもお客さんが主人であり、こちらは召使いなのである。

そこにプラスアルファ、人間的な味わいを付け加えるのが、それがアレッキーノの悪どさなのである。

クラウニングとは何よりも深く難しい技術である。そこに正解はない。また人間は一人一人違う捉え方もする。

即興力。空気を読む力、人の心を読む力、一瞬でその場の状況を判断する力、そしてそれを実行する力。

台本にはないものだ。状況は毎回変化する。

クラウンとは人の心を操る者である。それは何をおいても難しい。

そしてそれ故にクラウンとは人間力なのだ。

つまりクラウンとは、それは’’愛’’そのものなのだ。

クラウンの世界

パッと見て、クラウンには大まかに2種類の流派が存在する。

それが、アメリカンクラウンとヨーロピアンクラウンだ。

日本に入ってきているのはアメリカンクラウンだ。

その2つ、何が違うかというと、けっこう違う。

アメリカンクラウン

まず、アメリカンクラウンは見た目が派手だ。

冒頭で書いたようにカラフルで派手な衣装だ。またぶかぶかの衣装を着ていたり、ツギハギがあったりするが全体的に小綺麗で可愛らしい。

メイクも一定の基準があったりして、基本的に統一されている感じがある。

ショーの内容は、大袈裟で派手、動きが大きい。また滑稽でついつい突っ込みたくなってしまうドジなどをする。

それ故に誰が観ても面白く、分かりやすい。また愉快で温かみのあるものだ。子供にはオススメだ。

ホスピタルクラウンも、こちらに属する。

ヨーロピアンクラウン

次に、ヨーロピアンクラウンだが、見た目はそんなに派手でない。

普段着を思わせる時もあるし、趣向のある服だったり、レトロな服だったり、またとても奇抜な格好をしている者もいる。

見た目にこれといった基準はなく、皆思い思いの格好をしている。

ショーの内容は、一見すると何をしているのか分からない時があったりする。特に子供に意識を置いて作っているような感じではない。

演劇的要素が強く、詩的。衣装や派手な動作が無い分、人間の心理的な感情の扱い方に長けている。見ているうちに引き込まれて行ってしまう。

またヨーロッパの中でも、ロシアのクラウン、フランスやイタリアやスペインのクラウン、そして南米のクラウンでそのお国柄が現れていてショーの構成に違いがあったりして面白い。

ロシアのクラウンはとても詩的で哲学的だ。深みがあるが寂しく悲しいストーリーエンドだったりする。

フランスはとても情熱的だし詩的でもある。イタリアやスペインには陽気さや喜びもある。

南米のクラウンは、イタリアなどよりも更に人と人との距離が近いので、クラウンもかなり一般的な存在だし、そのショー内容も日本人からするとかなり際どいところまでいく。そんな事してお客さんは怒らないの?という事も全然するし、そこに温かみを感じているようだ。まさに’’クラウンは愛だ’’というのを実感できる。

他に有名な例を出すと、チャーリーチャップリンはもちろんクラウンだしみんなの教祖だ。またMr.ビーンもクラウンだ。

日本と欧米のショーの違い

大きく分けると、日本は何に置いても技術力が求められる。

例えば、道具一つその使い方にしろ、日本はそれをまずとことん練習して極めようとする。その上でのショーだ。

日本人の物事を極めようとする姿勢、職人肌はサムライ精神だろうか。かっこいいと思う^^

しかし、欧米では当然ながらその考えはあまりない。

少しでも出来るのならば、人前でもうやったらどうか?と言われる。みんなを驚かせられなくても、喜んでくれる人は少なからずいるし、そこにあなたの存在意義がある、と。

これはこちら特有のエンターテイメント精神だろう。人を喜ばしたり驚かせたりする事。人との距離の近さ。そして技術力がない代わりにある豊かな表現力。

どちらが良いか悪いかはないが、それぞれの価値観の違いだろう。

ただ、得意不得意はあると思う。

日本人としては表現力がやはり苦手な所だろうか。なのでそこを伸ばす努力は常に必要だと思う。もちろんその逆の事が欧米には言えるが。

理想は、日本人の職人気質と、欧米の表現力の融合だ。

余談だが、僕が長年住んできたイタリアでは、クラウニングと言うのはとても大事な精神の一つだった。

人はあらゆるショーの中にクラウンを求める。

それは純粋に、愛の国民性故の性分かもしれないが。→アモーレの国イタリアを参照。

人は、ただ、単に華麗で技術力があるだけのショーを好まない。そこに笑いや、捻りや、愛らしさを求める。

クラシック音楽のコンサートで、3人組の綺麗な女性がバイオリン、ピアノ、チェロを弾きながらクラウニングをしていたのには驚いた。

クラシックという確かな技術力が求められるのはもちろんの事、その表現力の高さにも驚いたものだった。

まとめ

クラウンとは、別にクラウンの格好をしていなくてもクラウンである。

上記したクラシック音楽の3人組が良い例だし、街角の大道芸人でも見た目がクラウンでないが、クラウンの者も多くいる。

それはクラウニング。つまり心の中にクラウンがいるという事だ。

人は誰でも心の中にクラウンがいる。それは大抵の場合、大人になるまでの環境の中で押し殺して来てしまったものでもある。

クラウンとは誰でもなれる。それは心を解放してあげる事だけだ。

クラウンとは、人生を豊かにするヒントだし、より円満な人間関係を築く鍵でもある。

人と遊ぶ事。人を愛でる事。人生を楽しむ事。

それは人間力の総合であり、クラウンとは愛そのものであるからだ。

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