日本でも盛り上がりを見せるハンドパン。
プレーヤーでもオーディエンスでも多くの人がその音色の虜となっている。
そんな日本のハンドパンシーンを語るにおいて、その火付け役ともなった超重要な人物がいる。
彼自身が制作を始めたことにより、今に繋がる日本でのムーブメントが生まれたのだ。
その人物、そう、国産ハンドパンを制作するハンドパンメーカーSONOBEこと園部氏だ。
物づくりの町、大田区の一角に工房を構え、日夜そこで制作研究をする同氏。
今回はその秘密をインタヴューをしてきたのでまとめて記事にした。
目次
Sonobeとは
「Sonobe」とは、日本のハンドパンメーカーであり、唯一国内で製造販売する。
その品質は折り紙付きで、世界中にファンがいる。
事実オーダーの8割は実に海外からのもので、入手には予約してから1年以上先となる人気のハンドパンメーカーでもある。
もともとスティールパンを15年以上作っていた同氏には、豊富な知識と経験がある。
潜入!国産ハンドパンの生まれる場所!
大田区の一角、ここには多くの町工場が入る。
狭くてごちゃごちゃした路地が立ち並び、そこからは様々な機械音や鉄を打つ光景などが見えてくる。
無事にたどり着けるかな?そんな若干の不安を背に歩いていくと、見えてきた園部氏の工房!
そこには一階に別の鉄加工の工房が入り、二階に園部氏の工房兼事務所があった。
「おぉ、ここが世界のSonobeパンの生まれる工房か!」
若干の緊張を手に、ベルを鳴らした。
「どうぞ〜」の声と共に快く園部氏は迎え入れてくれた。
扉を開け中へお邪魔すると、まず目につくのは、素人には見慣れぬさまざまな特殊な機械達。ここであの魔法の楽器が作られているんだなという実感が湧いてくる。
製作途中の半円状のハンドパンなんかも置いてある。
そしてラックにはずらりと出来立てホヤホヤのハンドパン達が並ぶ!
思わず「おぉ!」と声が出てしまう。
なんとも感慨深い光景だ。
〜スティールパンとの出合い〜
ハンドパンは中南米トリニダード・トバコ共和国のスティールパンから出来ている。
そして園部氏はもともとスティールパンメーカーであった。
ではそもそもなぜ最初スティールパンを作り始めたのかを聞いてみた。
やる事を探して
その後大学に進学するが、自身の道に行き詰まり中退。
それからは何をしていいか分からなくなったという。
そんな折に思い出したがのスティールパンの音色だった。
何をしていいか分からずに過ぎていく日々、それならばと一念発起して彼は、彼に夢を与えてくれたスティールパンの本場へと行ってみる事を決意したのだった。
22歳の時だった。
夢を求めてカリブの島へ
今でこそバックパッカー旅はポピュラーだけど、その当時はまだまだそういった旅のスタイルは珍しく、また飛行機チケットも高かったそうだ。
グアテマラで、スペイン語学校にしばらく通って語学勉強をして、その後はいよいよこの旅の目的地であったトリニダード・トバコ共和国へと向かった。
そこの現地スティールパン工房で、その作り方を学ぼうとしたのだった。
全く分からない、挫折の日々
この時の滞在は、1ヶ月。
保守的な現地の人たちは、突然やってきた外国人に対して快くその作り方を教えてくれることはなかった。
その後日本に帰国した園部氏だが、しばらくして二度目の滞在をしに再び現地に向かうのだった。
日本に帰国後は、ドラム缶を手に入れ、見様見真似でスティールパンを作ってみた。
その時住んでいた家の中は足の踏み場もないくらいに、道具で溢れた。
時には音がうるさいので森の中に行って、一人でトンカントンカンドラム缶を叩き、試行錯誤を繰り返した。
しかし、思うような音色は出せなかった。製品として販売もできるレベルでもない。
自分にはやっぱし無理だろうか…。
お店の立ち上げ
それからしばらくして、転機が訪れた。
発想の転換だった。作ることが無理でも、この素敵な楽器を紹介したい。
そう思い始めた同氏は、スティールパンをトリニダード・トバコから輸入して国内で販売する、仲介業をやり始めた。
国内初となるスティールパン専門店「パンライジング」の誕生だ。
自分の家を事務所に、細々と営業を始めた。
この時、日本でも徐々にスティールパンの知名度が上がり出していた。
The ブルーハーツのアルバム「PAN」でスティールパンが使われたりして、広く知られるようになってきていた。
そして園部氏の追い風となったのが、全国紙の新聞記事に彼のことが取り上げられたことだった。
当時珍しかったスティールパン。
その優しいハーモニーと明るい音色は多くの日本人の心を魅了したのだった。
徐々に軌道に乗り始め彼の事業は成功していった。
しかし…
大事件
そんな折に大事件が発生する。1994年の春の事だった。
スティールパン業者として彼のもとに一本の電話が鳴る。
埼玉県のとある吹奏楽の有名な学校からで、「今度うちの学校にも話題の新しい楽器を取り入れたい」とのことで、何十セットものスティールパンを発注したのだった。
(スティールパンは音域によっていくつかの種類がある。ベース用やソプラノの用、アルト用などだ。演奏をする場合、それら複数で1セットとなる。)
この時その学園からオーダーを受けたのは、実に23セット、65台。金額にして700万円にのぼる。
喜び半分、しかし恐怖の沙汰でもあった。
個人で扱うにはすごい量だ。まして若かりし当時の園部氏にとっては大きすぎる金額でもあった。
園部氏はすぐに現地に発注をかけた。
スティールパンは機械でポンッ!と作れるわけではないので、製作するのに時間がかかる。
それでも現地の繋がりのあった工房では大量生産する仕組みも整えられていたので、なんとか納期内に数を確保することはできた。
後はそれをコンテナに貸し切り、輸送してもらう。
それはまず大西洋を渡り、トリニダード・トバコの宗主国であったイギリスを経由して日本へとやってきた。
大クレームといびり
大量の書類に税関チェック。面倒な手続きを無事に済ませると、晴れて輸入完了!
そのコンテナごと学園にまで運んだ。みんなが待ちわびた瞬間だった。
しかし、そこで待ち受けていたものは…。
届いた製品の実に3割ほどはチューニングがズレていたそうで、大クレーム!
当然直そうとする園部氏に対し学園側は、「修理は認めない、交換しろ」の一点張り。
仕方なく、本国へまた発注して送ってもらった。当然そのお金は園部氏の自己負担だ。
それには時間を要し、当初の見積もりで出していた納期にも間に合わす事ができなかった。
またその自己負担額分は、結局今回の仕事の売り上げ分を軽く越えてしまい、大赤字に…。
そして極め付けは、「あなたに騙された、製品全てを返品します。お金も全額返してください」とまで学園担当者から言われてしまったのであった。
まさに踏んだり蹴ったりである。
これは日本と途上国を繋ぐ難しさでもある。
自分もかつてアフリカの雑貨を仕入れた事があったが、彼らの作る品質と日本人が納得する品質の差が大きすぎるのだ。
しかし日本人の考え方にも問題がある。
お客様は神様という価値観で海外の人とも接したり、また製品一つ一つが人の手作業で作られているという事をしっかりと理解していないところだ。
チューニング
担当者の方の急な態度の変化に、チューニングを認められたスティールパン達。
そして、この事により園部氏に、再び転機が訪れる事となる。
師匠との出逢い
いざチューニングを認められたが、園部氏に当時まだチューニングをする能力はなかった。
そこで彼は当時繋がりのあった日本在住のトリニダード・トバコ人に事の次第を相談をした。
そこで一人、有名なスティールパン職人さんを紹介してもらえる事ができたのだった。
その人こそが後に園部氏にスティールパン制作の技術を伝授する事になる師匠であった。
当時アメリカにてスティールパン工房を持ち活動していたその方デンジル氏は、園部さんのオファーにより快く日本までやってきてくれた。
来日しさっそく埼玉の学校に行くと、1週間かけて全てのスティールパンを正しくチューニングし直した。
園部氏は、デンジル氏の脇で手伝いながらその技を学んだ。
昔にトリニダード・トバコ本国へと行った時は、理論や技術の解説などは全くしてもらえなかった。
しかしデンジル氏は、細かく丁寧にスティールパンの構造や仕組みを教えていってくれたのだった。
そして、チューニングの作業が全て終わるとデンジル氏はこう言った。
『私をこのままアメリカへ帰すのか?もし君が望めばここに少し残ってスティールパンの作り方を本格的に教えてやることもできるぞ?』
これは園部氏にとって思っても見なかったことだった!
彼は二つ返事でその提案を受け入れたのだった。
スティールパンメーカーとしての独立
デンジル氏から学べた事は大きかった。
スティールパンは一つの音階からいくつもの倍音が鳴り響いて美しく聞こえる。
理論を正確に分かっていない者がやってもあの美しい音色は出ない。
「狙った音を正確に作り上げる事」
園部氏は門外不出だったスティールパンのその製法を学んだ。
そして一気に躍進した。
この時29歳。
東京郊外に新しく大きな工房も借り、日本初となるスティールパンメーカーとして独立した。
一台作るのに2週間ほど。しかし、以前のような失敗や挫折はもうしなくなっていた。
仕事は順調に舞い込んできて、確実に彼は自分の道を固めていったのだった。
ハンドパンとの出合い
その後スティールパン製作&販売は軌道に乗り、実績を重ねると共にまたオーダーもたくさん入るようになっていった。
多い時は1年待ちだったそうだ!
生活の方も安定し、プライベートでは結婚もして子供も生まれた。
この時期は、順風満帆に人生は進んでいったのだった。
PANArt社の発明品
「Hang」を発明したスイスのPANArt社とは以前からやりとりがあった。
同じスティールパンメーカーとして、同社のFelix氏とも繋がっていた。
その彼が窒化処理を施し硬くなった鉄を楽器に転用するアイデアを公表した時も知っていたし、彼の呼びかけの元そのアイデアで作品製作もした。
それから程なくして、彼は「Hang」を発表したのだった。
Felix氏はもともと奇抜な発想をし、面白い人物であったと園部氏は語る。
そして園部氏自身も新しい楽器の可能性に着手してみたかった。
しかし現実的には溜まっているオーダーと、家族を養う事を考えた時の責任から、簡単に新しい道へは行けなかった。
運命のバリスティール
そんな折に、一件の相談が舞い込んだ。
世界でHangが人気となり入手困難となる一方、それを模したバリスティールパンと呼ばれる製品が出回っていた。
これを持つ日本人から園部氏に相談の連絡が来たのだ。
曰く「チューニングがズレてしまったので、直してもらえませんか?」
との事だった。
実際に直せるかはわからないが診るだけみるよ、と前提を置き、そのチューニングを試みたのであった。
しかしそれをやっている最中だった。
バリスティールパンは表面に塗装が施してあり滑りやすかったのだ。
園部氏が膝に載せて診ている間にあろうことか、膝から滑って床に落としてしまったのだった。
その瞬間に、二枚のシェルが合わさっている所が「ベリッ」と外れてしまったのだ。
慌てて接着か溶接をしようとしたが、結局直すことはできなかった。完全に壊してしまったのであった…。
そのオーナーの方からは、「大丈夫ですよ…!」と許してもらえはしたものの、園部氏は心苦しかった。
そして言われたのが、「じゃあ園部さんも作ってくださいよ!ハンドパンを」と。
大学教授の発想
程なくして、もう一つの運命的な出会いがあった。
その時も突然彼の携帯電話は鳴った。
出てみると、とある大学の教授さんからだった。
何やら彼のする研究を手伝って欲しいとのことで、一度その教授さんと会うこととなった。
その方は植物や自然界が発する音の研究をしていて、曰く、
「スイカの持つ周波数はインドネシアのガムランの出す周波数と同じなんですよ!そしてそれは非整数倍音なんです。倍音には整数倍と非整数倍があり、人間が作ったものは全て整数倍。けれど植物や自然界のものは全て非整数倍になります。
今の多くの楽器は西欧の理論で作られていて整数倍音を元にしています。そこでこの自然界の音を配置した非整数倍で楽器を作ってもらえませんか?楽器の設計はこちらでしますので、形にしてもらえませんか?」
との事だった。
そこで教授が出してきた設計図には、2枚の丸まった鉄の板を貼り合わせた円盤型、そこに小さな窪みが並び音階が付けられているものだった。
そう!!
これは『Hang』のそのまんまだったのだ!
もちろん教授さんはHangの存在なんて知らない。
園部氏にとってみれば、これらの運命的とも言える流れで「Hang」の研究&製作、つまりハンドパンへと着手することとなったのであった。
2014年の事であった。
この時、園部氏45歳。再び大きな転換期を迎えたのであった。
「Hang」と「Handpan」の違い。
HangはPANArt社の製品。名称登録されている。
Handpanは他のメーカーが作るものでこの楽器の総称。
今後の目標
それから5年。
今ではみなさんもご存知のように、日本を代表するハンドパンメーカーへと成長した園部氏、そしてハンドパンSonobe。
今でも日夜研究し、毎年のように製法や素材にこだわって、新しい作品を発表する。
音のクオリティーは作品ごとに違うが、どれも素晴らしい。
美しい倍音が太く響き渡るものもあれば、硬めの音でパーカッシブなもの、サイズ違いや、音の配置の研究、また新しい技術の導入にも余念がない。
まとめ
はい!いかがだったでしょうか?
純国産、日本製のハンドパンメーカーSonobeの誕生秘話でした。
ぼく自身、今回インタヴューをさせてもらい、園部さんの最初のスティールパンとの出合いから始まって、波乱万丈の末にここまで辿り着いたという物語を知れてとても面白かったです!
また園部さんから感じるのは、彼はまさに『一流を求める職人』であると言うこと。
常にトライ&エラーを繰り返し、一度作ったものをまた見直して作り直す。
妥協せずに、嘘をつかずに、最高のものを求め続け頑固で一途なまでのその姿勢には、畏敬の念さえ生まれます🙏
ぼくもいちプレーヤーとして、最高の音色の楽器を演奏する喜びは大きく、園部さんの熱意には感謝しかありません。
けれど園部さんは最後に言う。
これからも進化を続けるハンドパンメーカーSonobe!
みなさんも要チェックですヨ❗️
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