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大事件
そんな折に大事件が発生する。1994年の春の事だった。
スティールパン業者として彼のもとに一本の電話が鳴る。
埼玉県のとある吹奏楽の有名な学校からで、「今度うちの学校にも話題の新しい楽器を取り入れたい」とのことで、何十セットものスティールパンを発注したのだった。
(スティールパンは音域によっていくつかの種類がある。ベース用やソプラノの用、アルト用などだ。演奏をする場合、それら複数で1セットとなる。)
この時その学園からオーダーを受けたのは、実に23セット、65台。金額にして700万円にのぼる。
喜び半分、しかし恐怖の沙汰でもあった。
個人で扱うにはすごい量だ。まして若かりし当時の園部氏にとっては大きすぎる金額でもあった。
園部氏はすぐに現地に発注をかけた。
スティールパンは機械でポンッ!と作れるわけではないので、製作するのに時間がかかる。
それでも現地の繋がりのあった工房では大量生産する仕組みも整えられていたので、なんとか納期内に数を確保することはできた。
後はそれをコンテナに貸し切り、輸送してもらう。
それはまず大西洋を渡り、トリニダード・トバコの宗主国であったイギリスを経由して日本へとやってきた。
大クレームといびり
大量の書類に税関チェック。面倒な手続きを無事に済ませると、晴れて輸入完了!
そのコンテナごと学園にまで運んだ。みんなが待ちわびた瞬間だった。
しかし、そこで待ち受けていたものは…。
園部さん
届いた製品の実に3割ほどはチューニングがズレていたそうで、大クレーム!
当然直そうとする園部氏に対し学園側は、「修理は認めない、交換しろ」の一点張り。
仕方なく、本国へまた発注して送ってもらった。当然そのお金は園部氏の自己負担だ。
それには時間を要し、当初の見積もりで出していた納期にも間に合わす事ができなかった。
またその自己負担額分は、結局今回の仕事の売り上げ分を軽く越えてしまい、大赤字に…。
そして極め付けは、「あなたに騙された、製品全てを返品します。お金も全額返してください」とまで学園担当者から言われてしまったのであった。
まさに踏んだり蹴ったりである。
これは日本と途上国を繋ぐ難しさでもある。
自分もかつてアフリカの雑貨を仕入れた事があったが、彼らの作る品質と日本人が納得する品質の差が大きすぎるのだ。
しかし日本人の考え方にも問題がある。
お客様は神様という価値観で海外の人とも接したり、また製品一つ一つが人の手作業で作られているという事をしっかりと理解していないところだ。
チューニング
ヨギー
園部さん
ヨギー
園部さん
ヨギー
担当者の方の急な態度の変化に、チューニングを認められたスティールパン達。
そして、この事により園部氏に、再び転機が訪れる事となる。
師匠との出逢い
いざチューニングを認められたが、園部氏に当時まだチューニングをする能力はなかった。
そこで彼は当時繋がりのあった日本在住のトリニダード・トバコ人に事の次第を相談をした。
そこで一人、有名なスティールパン職人さんを紹介してもらえる事ができたのだった。
その人こそが後に園部氏にスティールパン制作の技術を伝授する事になる師匠であった。
当時アメリカにてスティールパン工房を持ち活動していたその方デンジル氏は、園部さんのオファーにより快く日本までやってきてくれた。
来日しさっそく埼玉の学校に行くと、1週間かけて全てのスティールパンを正しくチューニングし直した。
園部氏は、デンジル氏の脇で手伝いながらその技を学んだ。
昔にトリニダード・トバコ本国へと行った時は、理論や技術の解説などは全くしてもらえなかった。
しかしデンジル氏は、細かく丁寧にスティールパンの構造や仕組みを教えていってくれたのだった。
そして、チューニングの作業が全て終わるとデンジル氏はこう言った。
『私をこのままアメリカへ帰すのか?もし君が望めばここに少し残ってスティールパンの作り方を本格的に教えてやることもできるぞ?』
これは園部氏にとって思っても見なかったことだった!
彼は二つ返事でその提案を受け入れたのだった。
スティールパンメーカーとしての独立
デンジル氏から学べた事は大きかった。
スティールパンは一つの音階からいくつもの倍音が鳴り響いて美しく聞こえる。
理論を正確に分かっていない者がやってもあの美しい音色は出ない。
「狙った音を正確に作り上げる事」
園部氏は門外不出だったスティールパンのその製法を学んだ。
そして一気に躍進した。
この時29歳。
東京郊外に新しく大きな工房も借り、日本初となるスティールパンメーカーとして独立した。
一台作るのに2週間ほど。しかし、以前のような失敗や挫折はもうしなくなっていた。
仕事は順調に舞い込んできて、確実に彼は自分の道を固めていったのだった。